教えることってどういうこと?その2
おはようございます 紅です
今日はイブ。
私には関係ありませんが。
教えるということについて考えている。
「習う」ことではなく「教える」
先輩に花嫁着付けを教えてもらっているところまで書いた。
職場の先輩なので「仕事に必要なこと」を教えてもらう。
教養ではなく、現場で使うためのもの。
生きた知識やコツが聞けるのが魅力だけど、こちらが尋ねないと出てこない。
私にとっては未知でも、先輩にとっては「当たり前」すぎることなのだ。
「私は教えるのが下手だから」
と言いながら・・・
確かに教えるプロではなく、職人というか達人。
教えるプロになる気は無いらしい。
齢を重ねられて、「自分の全てを教えたい」と思える人ができたと口にした。
そこにいた人たちは「選外」ということ。
自分が選ばれなかったのはあまり楽しくないが、選ばれても困っちゃうというのが私の気持ち。
口にしてもわかってもらえることは少ないが、私が好きなのは「着付け」ではなく「着物」。誰も真似のできないような着付けがしたいなんて思っていない。
「着る人が楽に美しく過ごせる着付け」を目指しているので着物を着ない着付け師さんたちとは
「話が合わない」
それに、全てを受け継ぐのは、白い紙状態でなければ。タブラ・ラサだっけ?
先輩が選んだ白紙状態の若い人がどこまで着いていけるんだろうか・・・?
自分が朽ちそうになるまで握りしめて「教えられない想い」と、それを受けとめる弟子の覚悟ってやっぱり「師弟関係」を結ばないと難しいんだなって感じた。
技術の習得は長い道のりだし、選ばれた若い人は今後、結婚出産と環境変化にさらされて「教えよう」という先輩の片想いになるかもしれない。
20年以上前に私が着付けを習った先生はあんまり教えるのが上手でなかったような気がする。
モヤモヤのままレッスンが終わることが多かったし、サークルなのでメンバーの進度もまちまちで、目が届かないことが多かった。
週一回のレッスンで、私は長襦袢の着方を一人で3か月かかって学んだ。
今、私のレッスンに来てくださるお客様には初回に着物の着付けまで教えている。
お金を頂いているのに「そっちで練習しておきなさい」ってわけにはいかない。
当時のサークルでは、振袖の帯結びを練習している上級者たちのモデルばかりさせられた。
モデルは疲れるしつまらない。
「モデルも勉強になるのよ」と。
否定はしないが、たいして学びもせずに「お稽古事・仲間とおしゃべり」の時間として10年も過ごした。
ただ、私はお稽古の時に必ず家から着物を着て出かけ、その日は着物で過ごした。
図書館にあった着物の本は読破した。
買いもしないのに呉服の展示会に出かけ、反物を触って回った。
教わることも大事だけど、実践も重要。
好きなことしているうちに、着物についての知識が豊富になっていた。
そんなある日、私にとってはかなり高いハードルだったけど和裁を習い始めることにした。
あら、また長くなっちゃいました。また次回!