紅の平成 ☆ きもの暮らし

特別じゃないふだんの着物とキモノにまつわるあれこれ

教えるってどういうこと? その4

こんにちは 紅です

今日は友人が遊びに来てくれました。

 

 

benikimono.hatenablog.com

 

引き続き教えることについて考えている。

 

和裁に関しては、枚数は進むのだが、「わかった」と思えない時期が続いた。

 

門を叩き去っていく人たち。

先生のあんまりウエルカムではないそぶり・・・

私の時もそうだったけど、習い事はこんな物と思っていた。

 

やる気満々でいた人も、灯りが消えたようになっていつの間にか来なくなる。

 

私はお稽古場で無駄がないように、できるところまでは宿題でやっていき、わからないところを学んで帰れるよう努力した。先生に褒めてもらった記憶はない。

 

いつの間にか浴衣は一人で印付けができるようになった。

でも、運針も自信がなく、額縁も曖昧。

それでも長襦袢も一人で縫えるようになった。

 

単も縫えて、袷に。

まだまだあやふやだけど一応縫えるように。

月日は流れ、様々なもの200枚くらいは縫ったのではないかと思う。

 

それでも、まだ「縫えるようになりました」とは言えない。

わからないところだらけだから。

学び続けるということは「わからないという立場」を取り続けるしかない。だからわかるようにならないのかもしれない。

 

この均衡状態に亀裂が入った。

 

この亀裂のことはまた後ほど書きたいと思う。

 

たぶん、何かが起きて先生は急に年をとったような気がしていた。

そろそろかな、予感はあったが先生はついに退くようなことを匂わせた。

 

もう教えてもらえないかもしれない。

 

先に生まれた人の性、先生は生徒を置いて消え去るのか。

 

まだ、学んでいないのに。

どうしよう。

 

自分に置き換えると、仕事を受けるためには元気でいなければという責任を感じる。

約束があるのに死ぬわけにはいかない。

けれどいつまでも生きていられるわけでもない。

 

どこかで終わりはくるのだと思う。