紅の平成 ☆ きもの暮らし

特別じゃないふだんの着物とキモノにまつわるあれこれ

今ここにある危機

こんばんわ 紅です

冷えてきました。

 

考えさせられる新しいテーマが現れました。

 

このところ立て続けに、認知症の話を聞く。

なんだか空恐ろしいことになったと感じた。

 

日本は未曾有の高齢化社会に突入した。

・・・自覚がない。

テクノロジーの進化は劇的な改善をもたらすのかもしれない。

 

でも、2016年の一般常識で考えるに、なかなか難しいことになりそうだ。

 

認知症は家族崩壊への触媒かもしれない。

歩みを早めるターボとか・・・

 

認知症になってしまった人の発言権ってかなり狭められてしまうような気がする。

正気の時もあるのに、わかっていない部分が強調されて家族に記憶されてしまう。

 

自分の身に置き換えて想像するに、大変恐ろしい。

冤罪を主張し続けて、破れ続けて、周りの人から疎外される結末を迎える。

「もう、わかりあうことなんかできない」

「こんな姿見せたくないけど、コントロールができない」

「暴れたこと自体覚えていない」

 

寿命が延びたことは喜ばしいことなのかもしれない。

でも・・・

そのおかげで未知の「老いの姿」と遭遇しなければならなくなる。

 

思えば今年話題になった、高齢者の暴走運転。

誰かが悪いということではないのかもしれない。

でも、人生のゴール間近で、人殺しになるのはなんとも辛い話だ。

 

そして、気になるのは、認知症になった時の言動。

自分にはもうわからない。

 

今まで抑えてきたものが噴出してしまうのかも・・・

常日頃から無理に抑えないほうがいいんだろうか?

長寿は本当に喜ばしいのか・・・

 

親が認知症になると、家族にとっても試練の連続。

元気な時の姿ばかり慕われて、まだ、元に戻るのではとコントロールしようとする。

怒る、批難する、文句を言う、諍いをする、皮肉をいう、当てこすりをする、仲間外れにする・・・

 

結果、関係悪化が進む。

 

不信感、憎悪、恨み、怨念

呪いの言葉を私はもう思いつかない。

 

努力しても動かない現実に、無力感・・・希死念慮

家族だって鬱になる。

もう止まらない。

 

毎日毎日、死を口にする、生きる屍のような親に対して

「お願いだから、もうやめて」

と思う気持ちは誰も批難できない。

 

認知症の本人は、言動を覚えていないものだから

「もう少し優しくしてくれてもいいじゃない」

「私なんか死んだほうがいいのね」

 

これが日本の数年後に迫った、標準家庭の姿かもしれない。

政治はオリンピックや豊洲問題、政務調査費に明け暮れていていいのだろうか。