9月1日は防災の日。関東大震災があった日です。
こんばんわ 紅です。
今週のお題にチャレンジです。
実は私、東京生まれの東京育ち。
子どもの頃は「震災の教訓」を植えつけられて育ちました。
主に小学校で盛んだったと記憶しています。
「地震が起きた!」
との防災訓練。
年中絶え間なくやっておりました。
非常ベルが鳴って・・・
机の下に隠れて
揺れが収まったところで校庭に移動、整列。
毎回時間を計っている。
9月1日は特別感があって、児童を親が迎えに行く「引き取り訓練」なるものも始まった。
子どもが誘拐される事件も多発したため「親であることの証明」ができないと子どもを引き渡してもらえない。
子ども心に、
「東京に地震が来たら生き残るのは難しい」
と信じていた。
火の海になるんだと。
「死ぬ覚悟」はできていた。
その後、縁あって関西に移り住み、21年前に阪神淡路大震災に遭遇。
それなりにシビアな経験をした。
でも、子どもの頃の訓練の成果か、危機を淡々と過ごせたようだ。
当時は関西に来てまだ日が浅かった。
被害地域がニュースに流れても「どこだかわからない」状況だった。
当日、揺れに気づいて目覚めた時、ベットの横に平行に立てかけていた琴二面、倒れかかったのを「ハシっ!」と受け止めた記憶がある。
その頃、使用していた目覚まし時計が、頭頂部を押すとライトが点灯するものでとても役に立った。
明るくなって、リビングやキッチンを見ると書類や調味料は散乱していたけれど食器などの被害はない。
運のいい方だったんだろう。
電気、水道、ガスなどのインフラは断絶。
子どもの頃に躾けられたように、即座に風呂に水を張り、やかんを水で満たす。水槽タンクからなのかまだ水は出ていた。
米を研ぎご飯を炊いた、とりあえずできることはしておこうと。
やがて救急車とけたたましい消防車のサイレンが・・・
ひっきりなしに続く余震。
サイレンの音が幻聴のように響いていた。
この時の緊迫した心は一体どこにしまわれているんだろう・・・
張り詰めたサバイバルの日々が始まった。
水が出ない、ガスも通らない。
お風呂や洗濯に事欠く日々に、今思うと懐かしいようだが・・・
体重が30キロ台になってしまった。
街はゴーストタウン化して、夜になっても灯りがつかない。
たまたま、前年の秋から公民館のサークルで「着付け」を習い始めていた。着物を着たい目的があって。
そう、震災でぽっかり空いた時間を「着付けの自主トレに充てていた」
家の中だからいいけど、外に着ていったら顰蹙ものだろう。
「非国民」か・・・
実際、のちのちこのような話を耳にした。
「この非常時に着物ってどうよ?」
と言われた着物人がいたそうだ。
こんな時にも着物を着られるようになるには「仕事にするしかない」という教訓が、ある意味刻まれた出来事だったんだと思う。
人生が終わる日に、好きな着物を着ていたい。
その望みはそれほど望外なものでしょうか・・・?
着物を着ない人にとっては非日常に着るものかもしれないけれど、きものは「着るもの」そして日本の民族衣装。
ただ、それだけなんです。